ふと気づくということとしてのΦ

∀x Φx
 何か奇妙なものが視界に映る。まったくの偶然で、何かにふと気づく。何か違うもの(Φ)。本当のところ、それは何でもないもので、特に意味もないのだけれど、わたしたちはそこに意味を探さないではいられない。「すべてが去勢されてるわけではない」というひらめき。

∃x Φx
 探される意味とは、想像される意味、想定される意味。しかしその想像された意味を読み取るには、象徴界にねざさないといけない。しかしこの試みはうまくいかない。なぜなら、すべてが語られているわけではないからだ(S(A))。具体物としての例外者は見つからない。性関係は不可能である。

∃x Φx
 そこで、見つからない「それ」、成り立ち得ない「それ」があたかもあるかのように見せかけるものが現れる(a)。

∀x Φx
 しかし現実界に近づくにつれて、aは維持困難となり、再び例外なき去勢という「つまらない世界」に行き当たる。

 こんな風に考えると、少しわかりやすいように思う。
 わたしたちは何かにふと気づき、そこに意味を求めるが、その意味は解読できない。そこでまさに、解読できないがゆえのファンタジーが成立するが、それは無限に続くわけではなく、やがて「賞味期限切れ」となり、再び砂漠に戻る。
 こう考えると、村上龍の『愛と幻想のファシズム』を思い出す。といっても、大分以前に読んだもので、細かいところはほとんど思い出せない。ただ前半の疾走感、躍動感、後半の政治的展開、そして最も印象的だったのは、ラストの「ハトのエサ」だ。何かキラキラしたものが見えて、それが素晴らしいものだと思ったけれど、結局それは「ハトのエサ」だった、ということだ。
 こうした構造は、多くの物語の中に見つけることができるだろう。何かふとしたもの、何でもないものにある日「気づく」。そこから物語は周り始め、その何かの意味を読み解こうとするが、解読できない。それが故に、物語は展開する。しかし結局のところ、それは何でもないもので、あるのは「つまらない日常」だけ(しかし、その平凡な日常こそが素晴らしい・・・)。
 重要なのは、ファンタジーが輝きを失い、aの効力が失効する、その果てと、特に意味もないものが発見される、その間に、何かが口をあけている、ということだろう。そこにあるのが現実界であり、それを直接に手にとることはできないのだけれど(だからこそ、特に意味もない「なんでもないもの」にふと気づくことができるし、それを通じてないものを感じる)、確かにそこで口をあけている。
 この世界には特になにもないし(∀x Φx)、クソ面白くもないのだけれど、そこで何かにふと気づける限りにおいて、すくい上げることのできない何かが通奏低音のように流れている。だからといって、ふと気付いた「何か」に意味を求めても無駄だし、そのファンタジーの中に永遠にとどまることもできない。いや、aを産出する健全なる神経症者であることはできるのだけれど、その体制もまた容易に崩され得る。
 物語にはならないなにか。
 なにか、残りがある。

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